シーフードの持続可能性と同時通訳

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昨晩(2月19日)の夜に、モントレー国際大学院が定期的に催してる講演がありました。
今回は、「シーフードの持続可能性は可能か」というテーマでのパネルディスカッションが行われ、
ゲストスピーカーとして以下の4人の人がこられました。

Kim McCoy – Director of Shark Conservation for the Sea Sheperd Conservation Society.

Dane Klinger – Stanford Ph.D student and former research scientist at the Blue Ocean Institute.

Casson Trenor – Director of Business Development at Fishwise.

Jason Scorse – Assistant Professor at the Monterey Institute.

MIIS Alumnus Casson Trenor

MIIS Alumnus Casson Trenor

パネルディスカッションと言いましたが、正確に言うと若干ディベートに近い感じで、Kim McCoyとJason Scorseが持続可能なシーフードの消費など無理、というスタンスで、残りの二人が、実現可能だ、というスタンスでお互いの意見を発表し、その後発表者 どうしで質疑応答があり、最後に聴衆者との質疑応答、というスケジュールでした。

最初にパネリストが全員自分の意見を述べるわけですが、あるパネリストは「魚だって痛みを感じるのだから私たちは食べるべきでない」と若干無理のある論を 張っていたり、またある人は「私たちは持続可能な方法でシーフードを食べることができるし、食べるべきだ」と言ってはいるものの、どうしたらそれが実現で きるかには触れなかったりと、気になる点が多かったです。
もしかしたら管理人が抜けた後にそういった具体的な話もしていたのかもしれません。

それからこれはモントレー国際大学院独自のアイデアなのですが、こういったパネルディスカッションやゲストレクチャーなどを利用して、通訳を学ぶ学生たちが実際にブースに入り、通訳の練習をします。
なので、講堂の入り口で同時通訳が聞けるヘッドフォンを配ってました。
今回は日本語はなかったのですが、中国語・韓国語・フランス語・スペイン語・アラビア語の同時通訳をやっていました。管理人はスペイン語をかじったことがあるのでスペイン語をちょくちょく聞いていました。
こうして講演を聴きに来ていた学生たちからフィードバックをもらい、通訳の腕を上げていくわけです。
非常に実践的で、こういう施設が整っているのも翻訳・通訳で有名なモントレー国際大学院らしいなと改めて実感しました。

管理人が納得いかないのは、「魚だって痛みを感じるから」とか「可哀想だから」食べるべきではない、という議論です。よく聞く議論ですが、あまり論理的ではないかなと。
ちょっとうまく説明できるかわかりませんが、挑戦してみます。

魚だって痛みを感じるから食べるべきではない(獲るべきではいけない)
=痛みを感じさせることは可哀想だ
=だから痛みを感じさせるべきではない
=つまり他の生き物(例えばシャチなど)も魚を食べるべきではない
(魚は牛、シャチはライオンなどに置き換えることも可能です)

「魚だって痛みを感じるから」食べるべきでないという論理を煮詰めていくと上の方程式のようになるかと思います。
この方程式は実現不可能ですし成り立ちません。
なぜなら人間は魚や肉を食べなくても生きていけますが、シャチはベジタリアンになることは不可能だからです。
自然界には食物連鎖があり、ライオンやシャチを頂点とし、全ての種が他の種を捕食して成り立っているわけです。だからこの自然の流れを変えることは無理ですし、大昔は人間もこの食物連鎖の一部として生きていたのでしょう。
つまり、「痛みを感じさせるのが可哀想だから」食べるべきでないという理論は、要は食物連鎖の否定につながるのではないかと管理人は考えるわけです。

では人間だけが食べるのをやめればいいのか。今まで人間がしてきた漁業というのは持続可能なペースを大きく上回る早いペースで行ってきた乱獲といわれるも のであり、さらにバイキャッチ(混獲・漁の目的以外の海洋生物を網にかけてしまうこと)のおかげで必要以上に海の生き物を殺してきたわけなので、当然これ らには規制をかける必要があると思います。
ではこの方程式はどうでしょう?

魚だって痛みを感じるから食べるべきではない。
=ただしこれは人間に限ったことで、魚を主食としている動物は食べてOK
=魚は痛みを感じ続けることになる

もともとこの論を張った人にこの質問をぶつけてみたかったものです。一体どんな返答をしたのでしょうかね。
この方程式がもしOKならば、やはり「魚も痛みを感じるから」食べてはいけない、という議論は論理的でないと考えます。人間が食べるのもシャチが食べるのも「魚に痛みを与える」という意味では同じ行為であるからです。じゃあなぜ人間だけが特別なのか。

こういう議論の陰に「人間は特別な存在で自然を管理しなければならない」といった考えがあるのではないかなと感じました。
高校のときに習った人もいるかと思いますが、山崎正和氏が書いた「水の東西」という短編の文章があります。これは、人間がどのように自然と付き合ってきた かを、水を通して著している文章で、東洋の思想は自然との共存を実践し、西洋は自然と対立してきた、というのが著者のポイントだったと記憶しています。東 洋の思想の例として鹿おどしを、西洋の例として噴水を使われていました。鹿どおしは水を上から下に落とすものであり、逆に噴水は自然な流れに逆らい水を下 から上に押し上げる、と。
先ほどの話にもどりますが、つまり人間は特別だから魚を食べないことによって自然をしっかり管理していこう、という考えがあるのではないかなと。

管理人の個人的な考えですが、欧米ではこういった考え方が主流です(西洋なので当たり前ですが)。しかし管理人は東洋文化出身なので、人間が自然を管理で きるなどというおこがましい考えは持ってません。やはり人間は自然の一部であり、自然とともに生きていけなければいけない、と考えます。
文化の西洋化が広まった今日の世界では、こういった東洋的な考え方は段々と少数派になりつつあります。
そのせいとも言えるでしょう、ここまで自然破壊が広まってしまったのは。
いくらテクノロジーが発展しようと、人間は自然から多くの利益を享受しています。
なので、その自然との共存という点は絶対忘れていけないと思います。
自分も環境のことを学ぶにつれて、ますますそれを実感しています。
ベジタリアンもいいですが、管理人は自然なペースで魚や牛を食べるほうがよっぽど自然だと思います。

以上、わかりにくい点も多々あったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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